昭和47年12月6日 朝のご理解


ご理解78節「神の機感にかのうた氏子が少ない。身代と人間と達者とがそろうて三代続いたら家柄人筋となって、これが神の機感にかのうたのじゃ。神の機感にかなわぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたすことがあり、また大切な者が死んで、身代を残して子孫をきらしてしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ。」


 神のおかげを知らぬからと、または、神の大恩を知れば無事達者で子孫も続くと。ここではやはり、神のおかげを知らぬから、例えば信心はせんでもおかげはやってあるといったようなおかげは話を聞けばなるほどそうだということがみなさんわかりますよね。天地のご恩徳の中に、ご恩恵の中に、おかげを受けなければ私共が、あー立ち行かないということは話を聞けばわかるんですけれどもね、そういう分かった程度のことではいけない。自分が本当におかげを頂いて、なるほど何というても神様のおかげじゃなと、神様のおかげには恐れいってしまうなと、その恐れいったおかげをね、頂かなければならない。そのおそれいったおかげを頂く。ね、そこからいよいよありがとうならせて頂き、いよいよ、ね、おかげを頂くことによって、ね、神様の御恩ども忘れよると、いうなら大変なことだということになる時にはじめて神の大恩がわかることになる。ね、ですからどうでも一つ、神のおかげを知らぬからと神のおかげをし、ね、世界の中氏子にやってあるといったようなおかげではくてです、もう本当に特別、特別の例えばこの氏子にだけしかくださらんといったようなおかげをですね、おかげを頂かなければならん。

 今日は、そういう意味でね、今大変、あのーまあいうなら違ったというか、これからの合楽の信心の、焦点になるだろうと思われるようなことを聞いて頂こうと思うんです。ね、まずね、だからおかげを受けなければならんということ。ね、おかげを受けなければ大恩がわからない。例えば、まあ私は子供の時に何回もない命を助けて頂いておる。和賀心時代の中にも話をしておりますように、ね、ばばが、人に話をするときに、私をさして、「この人はもう金光様の御恩どん忘れよるとばちかぶる」と何べんも何べんもない命を助けて頂いて、というわけです。そういうおかげを頂いて、ね、だからそのその御恩ども忘れよると、いわゆるばちかぶるということは、その御恩ども忘れよると大変なことになるということになるのですから、もう子供の時から神のおかげを分からせてもらい、神の大恩を、こう、ばばが私に教え込んできたような感じがいたしますね。

 そこで、なら私のおさな心というか、心の中にです、ね、少年、青年期を経て、いよいよ実感させ頂いたことは、私は神様のおかげを頂かなければ立ち行かん人間だというような、ことがわかった、思いこまれてきたんですね、そのことが。ならおかげを、ない命を助けて頂く、話を聞いただけでもほうというような、おかげを頂かなければです、神の大恩はわからんでしょう。またおかげを頂かなければおかげがわからんでしょうが。話を聞いて理論的に分かるといったようものではです、いわゆる子孫繁盛、家繁盛、いわゆる子孫も続き、身代もでき一年勝りのおかげにはつながらん。ね、そのおかげを頂いて頂きたい。

 樺目の時代に、人が助かるようになって一、二年した頃だったでしょうか。ご祈念中に、私の家からお葬式をだしておるお知らせを頂いた。誰が死んだとやろうかと思うたら、親のお国替えということであった。(    )のようにびっくりしましてね、ご祈念中に。神様、とにかく私はこの親のために一生懸命信心もせて頂いとる、この親のために今まで修行をしてきたというても過言ではないくらいでございます。どうぞ神様、私の子供が中にどの子でも、どの子この子というて、言われませんから、神様どの子からでも、ね、お引き取りくださるなさるならお引き取りくださってもよいから、親の命ととりかえてくださいというようなことをお願いした。そしたら神様がね、「そのほうの命ととりかえてくれとなぜ願わんか」と、こういわれた。それで私はこのことを申しました。「神様、私の命は、なら子供よりも、いうならば親よりも、なら私が願うのですから、私の命に引き換えてでもと、言うのが本当でございましょうけれども、私には、大きな御用がございます。」神様から、当時頂いておった、大変な御用のこと、今日合楽がこんなふうになることもその当時頂いておった。ですからそういう大変な御用があるのでございますから、ね、もう私の命よりも、それは、あの大変なことなのですけれども、けれども親にはかえられんから、どの子か一人子供をそのかわり引き取って頂きたいというてお願いさせて頂いた。そしたら、葬式の白い旗を掲げておるのが、真っ赤な旗にこうたてて、何かのお祝いの行列のような感じになって、頂いたのがですね、3級くらいのラジオを頂いて、そのラジオから大きなラジオに変わるところを頂きました。神様のお試しだったんです。ね、いうならば、今私が神様から頂いていることは、まあ3級程度の、国内なら国内だけしか聞こえない程度の、いうならば力を頂いておったけれども、ね、そのことをとおして、いうなら親も死ななかった私も死なんでよかった、子供も引き取られることもなかった。けれどもその覚悟のほど、お役に立ちたいという一念なんです、いわば。例えばそこにたったときに、神様はそれを境に、ね、大きなラジオをいうならば世界中のことが見えたり聞こえたりするような徳をくださった。あの時分です、ね。あのちょうどその時に、ハワイにいっておる人が、もう十何年間音信不通というお届けがあったんです。ね、ですから本当に向こうから手紙でもあのーきたら安心するけれどもというお願いがあった。私はそのお知らせを頂いてから、もうハワイのことがね、もう手に取るように見えるんですよ。いうなら千里眼的な、その、いうならば、一つの霊眼ですね、そしてね、神様がその息子さんに一生懸命内地のことを思わせる、思わせておられる姿を頂いた。そして、はあこれはほんとう内地に手紙でも出そうちいうてお金ばいれてから送るところまで頂いた。ね、ちょうどそれから、数えますとその時に、そういう、あの働きがあって、手紙とお金と送られてきた。というようなおげ。

 当時まだインドにガンジーという人がおりました時にですね、ガンジーのあの断食の様子なんかをもうはっきりと頂きました。いうなら今までは、ね、3級くらいなのが、いうならば6級か、とにかく、世界中のことが見える、聞こえるような、お徳と、そういうときに繰り返し頂いたというようなことがございました。それと同じようなことでですね、昨夜私お夢の中でですね、もうそれこそあんな大きなテレビは見たことがないというというようなテレビがそこんところの研修室の向こうの廊下のところにおいてありました。
もうその裏のほうにはどれだけの線があるやらかわからん、その線、あのテレビがね、 例えば、なら東京の歌舞伎座のお芝居やらここでここでみえるということのためには、もう様々な緻密な機械があって、線がこうあるでしょう、やっぱ、ね。そのお夢の中でね、しかもあの研修室の向こうのほうへ畳を2、3枚はぐってね、そこんところに据え付けられる基礎ができているところ頂いた。これは合楽の上に大変な、いうなら徳の力をくださるなと、だからそれがいつごろから、それならそれが見れるようになるだろうかと。そのことは頂かなかったけれども、どうもこの報徳祭を境のごたる感じですね。この12月20日の報徳祭を境のごたる。そこで、ならお互いの信心がどのように、この5年の記念祭をさかいに例えば変わらなければならないかと、いうとです、ね、今日私の話を聞いて頂きました、まず神のおかげを知らぬから互い違いになってきよる、そのためにはなら神のおかげを頂かなければならんのだ。ね、また神のおかげを頂くことによって、神の大恩をいよいよ知ることができるんだ。ね、ですからそのいうならば、おかげを頂かなければならない、そのおかげを頂くための信心がです、今まで私はこんなふうに例えたことはありませんよね、おかげを頂かんならん。ね、おかげを頂かなければおかげっていうことがわからん、実感として。ね。


 昨日、壮年会で石井清(イシイキヨシ)さんが言ってましたけど、私のように神様からお知らせを頂いて、どういう難儀な問題でもその都度お知らせを頂くから同じような問題がおこってもやっぱり不安だと。けれども神様からお知らせを頂くから、はあっと心の中に安心ができるというようなことを話ておりましたけどね、そういうおかげを頂いた上にも頂いて、初めて神の大、おかげを知ることができるのであり、神の大恩を、また知ることができる。ね、そこでなら、み教えにも、おかげは受け徳受け勝ちとあるでしょう。これは大変、今まで合楽的に深く頂きますとです、徳を受けた者が勝ちだという意味に頂いてまいりましたですね。けれどもそうじゃない、今日はです、受け勝ち、もうおかげは受け徳受け勝ちなんです。ね、だからとにかく一生懸命お願いをして、おかげを頂いたものが勝ちなんです。ね、だから一生懸命お願いをするということによって、おかげが借金になるようなことをいう人もあるけれども、そういうことはないです。それだからどうでも一生懸命願わなければならないことになってきた。ね、そこでです、ならしかもです、願うというなら一人ではなくて家族中で願うということになってくる。ね、このへんから阿倍野の信心に入ってくるわけですね。おかげを頂かなければ、おかげという実感というものは頂けない、またはおかげをいやがおうにも頂いてはじめて、本当に神様の大恩ども忘れよったらということになってくるのです。ね、そこで神の大恩をです、私ともが分からせて頂くことによるとです、ね、ここにありますように、子孫、あー無事達者で子孫も続き、身代もでき一年勝りのおかげが頂けるようになる。だからおかげをうけなきゃ。そのためには、そのおかげは受け徳受け勝ちとおっしゃるのだから一生懸命願わないかん。自分一人で頂きよるなら家内も、家内もなら子供も、家族中をあげてこのことを願う、このとを願ってくれという信心が、いわゆる勢をそろえた信心にどうでも合楽中がならなきゃいけんごとになってきた。
 そこにです、例えば家族中が信心しとってもバラバラではもちあがらんのです。ね。親はこの子とを願う、子供はのことを願うじゃいかん、だからもう家族中のものがどういうようなこともです、本気で願うかというと、こういうことをね、私は昨日は頂いたから書いてみた。「み教えにも、何をするにも体が元なり、体の丈夫を願え、その体の丈夫を願うということ、一家中の体の丈夫を願うということだったら、これは一家中、親でも子供でもこれは願わなければおられないことですから、勢をそろえて願わにゃいかん。家族中の体の丈夫をねがわにゃいかん。いいですか。こんどは二番目ですよ。二番目はね、家内に不和のなきがもととおっしゃる。どうでも家庭中が円満になることを家族時中のものが願わないかん。ね、家族中のものが夫婦喧嘩どんしよったっちゃおかげ頂かれん。親子のなかに溝ができるようなことじゃおかげ頂かれん。嫁後が娘のようになり、娘が嫁くらいなおかげを頂かなきゃいけん。ね。

 昨日、善道寺の原(ハラ)さんがお届けしておられました。娘の千恵子(チエコ)さんにこの頃信心が不信心になっとるけんで、あんたはそげんすぐ人ばお説教してからちいうてから腹かいたと。自分の娘だから言いたいことがいえるわけです。そこで今度は自分の娘には嫁後にいうくらいの気持ちでいうたらいいわけです。ね、そして嫁にはです、自分の娘の信条をもって嫁に語り掛けるということになると、うちの嫁後さんがなんていわんですむ。ねいわゆる家内に不和のなきがもとですから、これは家族中のものがいっちょぶっちょうずらするがかちいうのは一人もおらんのですから、家族中のものが、10人おるなら10人の家族のものが家庭の不和のなきがもととおっしゃるから、家庭に不和のないような願いを祈りを一生懸命しなきゃいけない。しかも勢をそろえて。次にはね、家繁盛、子孫繁盛を願わないかん。ね、家繁盛子孫繁盛をこれはもう家族中で勢をそろえて願えると、もうそげなことは願わんでよかというのはなかでしょう。ね、次にはね、本当の御用ができますように願わないかん。一家中の者で本当の御用ができますように。これは何4番。ね、そのためには、体の丈夫をねがわにゃならん、家内の不和のなきもをねがわにゃならん、もちろん経済、家繁盛、子孫繁盛ということ、家庭繁盛子孫繁盛のに中には、いわゆる経済のこともありましょう。ね、金銭のことも不自由しよったっちゃ御用はできん。ですから真実の御用ができまように、例えば今願ったことはです、体の丈夫も、金銭のお繰り合わせも、家庭が円満であるということもです、真に神様のお道にかなう御用のできることのために願う。これでもう、すーっとこの一つの筋金がとおってくるです。ね、しかも一人でじゃない、二人じゃない、家族中がこのことを願うということにならなきゃならん。信心のない家内なら、信心がない家内に頼んでからでもどうでもこうでもお前もこのことを願ってくれ、勢をそろえた信心をしようじゃないかということにならなきゃいけない。ね、次に、これは神様の願いである。神様の神願である。その神願が成就いたしますようにと願わにゃいかん。それを和賀心時代を創るということを、いわゆる神の願いの最高のものとしてです、まず自分の心の中から家庭の中から、自分の周辺に和賀心時代ができることのための、いうなら運動員にならせてくださいというような、そういう御用のために、私がおかけの手本、おかげの見本をまず頂かせてくださいとねがわにゃいけん 私はこの5つのことならばです、家族中のものが同じ祈り、同じ願いにたつことができると思うんです。ね、いわゆる勢をそろえた信心、それからまた先は色々と、信心の家庭、ね、おやじと子供の場合は、なら信心の程度が違いますからそれから先はめいめいが、またいろいろ様々に祈ることもいいでしょうけれども、この5つだけはどうでも家族中のもので、あんた今日はここんところを祈ったの、願うたのというて願いおうていかにゃいかん。この5つのことは。そしてです、願わなければならない。もう金光教の信者としてはもう当然当たりまえのこと。どうぞ日参りができますようにと願わなければいかん、家族中のものが。ね、一緒に参られんなら、主人が朝参りするならば家内が夜参りをする。子供が昼参りをする、今、朝のご祈念、それから1時のご祈念、それから4時の私のご祈念、それからよるの8時のご祈念という、ならご祈念が4回あっているから、そのどれかに家族中のものがお参りしにゃいかん。ここがもう決定版です。これは当然、当たりまえのとです。それが今まで合楽はできていなかった、ね、阿倍野の場合はこれがもう見事にでけておるんです。ね、だからそこんところには一つの修行というものを、修行の精神をです、本当に家族中のものがもって勢をそろえなければならないことがわかります。

 ここ2、3日、高橋さんがいつも朝のお食事を一緒に頂きますけれども、今日も頂かん、今日も頂かんということですからどういうこっちゃろうかと思うて、昨日聞きました。聞きましたら、朝のご祈念に、ね、朝の四時のご祈念に、必ず福岡から出てみえるわけです。昨日なんかでも、ここの御用のために、もうほとんど終日四時のご祈念をするちょっと前までここのなんかむつかしかところをしてもらいよる。そしてなら、帰ってもうそれこそたくさん店の御用をなさってから、そして、なら朝は四時のご祈念の私がでてくる前にここにつかせて頂くような修行をさせて頂きよんなさる。それで昨日はその四時のご祈念に遅れたからもう断食をしますと。そのくらいな修行がいるです。この真似ならこれなら私はだれでもです、ね、例えばいうなら福岡からです、ね、だから高橋さんの真似をするなら誰でもできんことはなかと。うちは久留米辺からじゃけん遠かけんてんなんてんちいうことはいうことなか。ね、久留米日田んあたりはもう近いとこ。ね、本当に(    )朝晩のお参りがあるけれども、それこそ朝昼晩参たっちゃよかわけ。あのね、みなさん、これはね、もういうならばこれからの合楽の決定版ですから、ここば実行しなさってですよ、今んごと体の丈夫を願うたり、家内の不和を願うたっちゃおかげにはならん。ね、だからどうでもこうでも今日私が申しましたようなとこに一歩でも二歩でも近づかせて頂く信心をさせて頂かにゃいかんです。今日私がいうたことがわからんならもう一遍テープを聞きなおしなさい。そしてうつしていきなさい。そしてそれができるようにお願いなさらにゃいかん。

 一つの手本があるということは素晴らしいですね。この高橋のさんのように、それこそ福岡から合楽まで、場合によっちゃと二編も三偏も通うてみえることがある。いろんな御用のとき、会議なんかのときでも。私は忙しかけんでと、なんてんいうちゃおられないほどなのです。忙しいちいうなら高橋さんほど忙しい人はなかろうと思う。本当いうたら、店いっこく一軒一軒回るだけでも大変なんです。そこのところを神様にお任せして、ね、しかも朝の4時のご祈念に出て、おそなったら断食してでもそのことをお詫びをするといったような生き方なんです。ね、そういう信心がです、なるほどこういう信心にならせて頂くときにです、身代と人間と達者とがたろうたおかげになってくる。そしていよいよです、ね、神のおかげ知るほどしのおかげがもう歴然としてくるでしょう。
 
 そりゃ私は今月になってからこう言ってるでしょう。そりゃ今ここで家族勢をそろえて、なら佐田(サタ)のさんとか、久富勇(ヒサドミイサム)さんとか、あの家族勢をそろえてこうやれってそれこそお参りができよる、毎日お日参りが。できておる人たちの今月になってからのおかげというのは目覚ましいです。ね、勇(イサム)さんたちのおかげなんかでも、本当にそれはもうあた、もうとにかくただ恐れ入ってしまうです、私が。ね、なるほど体のほうはあげなふうで、まだ夫婦ともあんなしとんなさりますけれども、あれやらこれやらのうえに、もうどうにもこうにもできん、もうこれが致命になるというほどしのことがらがです、もう手のひらをかえすようにおかげになっとる。佐田(サダ)さんなんかの場合なんかは、もうただただこの頃から大変おかげを頂いて、お父さんはなかなか無口ですから(  )けれどもお母さんと奥さんがです、もう実はあのおかげに中には親先生、もうとにかくただ不思議と言わなければおられないというほどしのおかげがです、ね、まあそれをここでお話できんのが残念ですけれども、もうなるほど勢をそろえた信心というと、今月にはいってはっきりしてきたことはです、もう合楽の場合ですね私が阿倍野の信心を頂いて帰ってきてです、いうならば、もうちょうどいうならばラジオならラジオ的なとこからです、大きなテレビのおかげの徳に切り替えられる時期たと思うんです、この五年祭という記念祭を境に。しかもまだいうなら準備中、まだきとるだけで、畳はぐるとなんかはかえって見苦しいところがあるくらなこといです。けれどもこの線がいっちょいっちょつながるとです、本当におかげが頂けるというなら私がいうたことくらい、みんなが絶対のおかげになってくるです。ね、あのくる、樺目の時分にです、ね、三級のテレビの、じゃないラジオの徳から全世界のことが聞こえるような大きなラジオの徳に神様が切り替えて下っておかげをくださったというときにです、ね、本当にやはり門前市をなくようなご比例になったでしょうが、樺目が。ね、三年四年、五年の記念祭をするころまでに、もうとにかく本当に目覚ましかったでしょうが。だからそういう意味において、もっと大きな、もっと本当なものがです、例えば五年祭を合楽の五年の記念祭を境にです、そういうおかげが頂けてくるということ、しかも、ならここで今日私がみなさんに申しましたように、おかげは受け徳受け勝ち、もういただき、頂いたもんが勝ちなんです。それには、例えほんなら今いう、これは金光様の信者としては当たりまえのことなんです。お日参りをするということは。ね、しかも家族をあげです、勢をそろえた信心をせよとおっしゃるのだから、勢をそろえた信心をすことは当たりまえ、おかげを頂くためには。ね、勢をそろえた信心、一人じゃもちあがらん石でも、とおっしゃるから、それでもやっぱり自分一人いつまーでんそこにおる。それで持ち上がるはずがないじゃないか。勢をそろえれば持ち上がるとおっしゃるから、勢をそろえじゃごて。そういういわば時期に合楽はあるのだ、恵まれたと。ね、雨が降るから風が吹くからえらいと思うたちゃならん、その辛抱こそ身に徳を受ける修行とおっしゃるのじゃから、どういう問題があってもです、家族中のものが、あなたが朝なら私は夜といったようなです、ね、いうならその日参りというか信心ということがそのままです、もう家庭生活の生活の中にです、日常生活の中にはいりこんでしまわなければいけんです。なんか信心とは特別もののように思うて、金光様の信心じゃないです。ね、だからお参りをしとらんなら今日の御用が何か歯のかけたごたるものを感じなければいけないでしょう。それはみなさんおかげを受けておるということは、みんなおかげをうけてます。けれどもなら佐田(サダ)さんとか勇(イサム)さんあたりの今月になってからのおかげのようなあかぬけしたおかげじゃないわけ。ね、勢をそろえるということ、しかも、ね、日参りができるということ、これは金光様の信者としては当たりまえのこととしててず、阿倍野あたりでは当たりまえのこととして、それができておるところにあのごひれいがあるのです。それを私はいただきにいったんです。しかもかんながらに。そして頂いたて帰ってきたらです、ですから合楽の信奉者一同が頂かなかったら、こげなもったいないことはないじゃないですか。ね、だからどうぞ、例えばまだ15日あるところの、報徳祭。報徳祭に(?)家族中のものがその日店をするのやめてから、ね、親戚中のものもさそいおうてから、一つお参りをてみてごらん。そういう願いをたててごらんなさい。勢をそろえてそしてどうでも勢をそろえ願う。願わなければならないことは、まずは(  )いけんから、これだけのことは(   )体の丈夫を願う。家内に不和のなきがもととおっしゃるから、家庭の円満のことを願う。家繁盛、子孫繁盛を願う。本当の意味においての真実の御用ができる、できますようにと願う。ここで願いにずーっと筋金がはいってくる。なるほど、これならばおかげは受け徳受け勝ちということになるだろうと思う。願わねば損ということになる。ね、おかげ頂いたもんがもうけということになる。それをねがわねばいかん。それが(  )真実の御用ができますように。ね、そして、ね、今合楽で言われているところの神様の願い、神の悲願にこたえまつる、これでは私くらいのことじゃない、神様の願いが成就いたしますようにというてねがわないかん。神様の願いというのは、世界中が円満になって、人間の一人一人が幸せになっていくということを願われるのである。だからその願いを合楽では和賀心時代を創るということをいわれる。だから和賀心時代を創っていくことのための同盟が、一つ運動員になったつもりで、自分自身がおかげを頂いて、そのおかげとおかげの見本をひっさげて、人にも伝え、語っていかなければならないということになるのです。

 ね、今日のことがみなさんの納得のいくまでお話になることだろうと思いますこれから。けれども、こうやってお参りをしあわせておられるみなさんはです、いうなら私が今朝から頂いている生々しいところ、私の心が躍動しとる、そのところを今日はみなさんに聞いて頂いたわけですから、聞いただけじゃだめです。それをもうほんとうに信者として当たりまえのことを当たりまえにです。ね、当たりまえのことを当たりまえに行じていくところの信心。どげん考えたっちゃ(  )さんの場合だって、久富勇さんの場合だって、とても普通とは思われない。そういうおかげを頂いて初めて、はあおかげだな勢をそろえて信心したかいがあったなあとそこで、いうならその御恩だんとても忘れたらでけんと子にも孫にも言い伝えなければおられないものが生まれてくるのです。だから子孫繁盛にならんはずがなか。ね、神のおかげを知らぬから、神、神の大恩を知ればとこう、ね、ためにまずおかげを頂かなければならん、その願いに立たせて頂かなければならなきゃいけない、ということです、どうぞ。